代表井手は、5年前~現在にかけて、ある程度の先祖調査を行っています。
なかなか時間が取れなくて…少しずつしか進みません。依頼者(お客様)のは、たくさんやっているのですが(苦笑)。
何かの参考になればと思い、記します。お時間のある方、よろしければご覧ください。
単純ですが、昔から自分のルーツに興味があった、ということが大きいです。
実行に移すきっかけとして、母方の祖父が認知症を発症し、少しでも覚えているうちに聞き取りをやらなくちゃと思ったことと、家系図を作ったら祖父が喜ぶだろうなと思ったことがあります。
また、子供が生まれたので、お前の祖父母や曾祖父母はこんな人だったんだよと伝いたい、いろんな人がいてお前が生まれてくることができたから先祖に感謝の心を持ちなさいと教えたい、という思いもあります。
そんなこんなで、ルーツ探しの旅に出ることにしました。
まず、父母から先祖の話を聞き取りました。
■父方の父(祖父)について
祖父は、佐賀の神埼出身、先祖(私からすると高祖父)の起こした素麺(そうめん)の会社の3代目、ぼんぼんで育ったためか戦争に行ったためか経営が上手くいかず、会社が人手に渡り、逃げてしまったので一家離散の憂き目にあい、6人兄弟末っ子の父は8歳で血の繋がらない井手家へ養子に出され、養父との折り合いが悪くかなり苦労したと聞かされました。ただ、父の養母は、父実母の実家の使用人の娘だった方で、実母と共に姉妹同様で育った関係、お世話になったからということで生活が苦しいなか、そして再婚してまで父を引き受けてかわいがってくれたとのことでした。祖父のそうめん工場は、佐賀でもかなり初期の段階で機械を導入してそうめんを生産していたとのことなので、もしかすると戦争の影響もあってそのあたりの借入れの返済ができなかったのかなぁ、なんて思います。
ちなみに、父が養子に出されていなければ、私の姓は「垣永(かきなが)」のはずでした。
■父方の母(祖母)について
祖母は江田島の出身で、もともと武士の家系、裕福な実家でお姫様のように育ったので、祖父のもとに嫁いですぐはまったく家事(料理も裁縫も掃除も洗濯も…)ができなかった、一家離散するまでは着物がタンスに山のようにあった、と聞きました。祖母(明治生まれ)の母(私からすると曾祖母)は学校の先生をしていたとのこと、明治や大正で女性が教師をしていたとは…。その後、慣れない仕事でだいぶ苦労したようですが、72歳まで長生きしました。
■母方の父母(祖父母)について
一方、母からは、父方も母方もずっと熊本県荒尾市水野に土着の百姓だった、と聞いています。とはいっても、祖父は小学校卒業してすぐ定年まで国鉄(現JR九州)に勤務したので農家ではなかったのですが、山やみかん畑がたくさんあって、畑で野菜やみかんを作り、山でタケノコ・柿などを収穫していました。祖父は終戦前は小倉で勤務していたとのことで、もし昭和20年8月9日に小倉上空が晴れていれば、広島後の第1攻撃目標だった小倉に原爆が落とされていて、私はこうして生きていることはなかったでしょう。歴史が身近に感じられます。
こうしたことを聞き取って、戸籍の調査を始めました。
何はともあれ、家系図作成・先祖調査の基本は、戸籍調査からです。
途中、自治体に廃棄されていて取得できないところもありましたが、4か月ほどかけて、取得できる戸籍については全て、そして取得できない(廃棄した)ものについてはその証明を取りました。
結果、戸籍は22通、証明書は3通となりました。
請求を出した自治体の数は11市区町村に及びます。
ちなみに、戸籍取得の実費だけで約2万5000円かかりました。
両親から聞いた内容はだいたい合っていて、戸籍によって裏付けられました。
戸籍取得について、私は仕事で請求することが多いため、請求の仕方も戸籍の読み方も、請求する際の注意点も全部わかっていますからスムーズに進められましたが、あまり経験のない方がこれを行おうとしたら、相当に時間がかかり、見落としも多くなるのではないかと思われました。
それも楽しむ、という方ならばよいのですが。
戸籍が収集できたところで、いよいよこの時点(戸籍の範囲内)での家系図の作成に入ります。
家系図に、こういう表現をしないといけないとい表現方法についての決まりはありませんので、自由に作れます。
私は、父型の家系図と母型の家系図を別々に作成し、名前だけでなく生年月日、死亡年月日、旧姓、新姓を記載したうえで、最後に2つを合体する形をとりました。
最終的には、俗にいう「蝶型家系図」と直系だけを書き出した家系図の2つを作成しました。
祖父に見せたところ、非常に喜んでくれて、昔を思い出したのかいろいろと今まで聞いたことのない先祖の話や地域の話を聞かせてもらいました。
家系図は、親族が集まる折、例えば、正月や法要、結婚式、古希や喜寿のお祝いなどで披露できると喜ばれるでしょうし、皆の会話が弾むのではないかと思います。実際に私も正月に親族が集まった折に披露すると、大変盛り上がりました。
なお、戸籍の中から判明した一番昔のご先祖様は、母方の祖父のそのまた母方の祖父で、「田畑喜平(文化11年7月4日生)」。文化11年を西暦にすると、1814年です。江戸時代後期で、滝沢馬琴が『南総里見八犬伝』を記した年にあたります。
実に、200年前まで遡りました。
名前だけだとその上も分かっていますから、20歳の時の子が喜平さんだと仮定したら、実際は1790年(寛政の改革あたりで11代将軍・家斉の時代、世界ではフランス革命の翌年)くらいまで、私を起点にすると6代前までは遡ることができたようです。
一方、父方の方は、一番昔のご先祖は、父方の祖母の祖父で、「大内時三郎(天保14年8月22日生)」。西暦になおすと、1840年です。日本では、水野忠邦による天保の改革が始まり、世界を見るとアヘン戦争が始まった年になります。
ここまで分かっただけでも感無量です。
が、ここで手を緩めるわけにはいきません。さらに先祖調査の旅を続けることにします。
先祖調査を始める前は、父方の祖母の家系は現在の江田島ということを聞いており、戸籍上も裏付けられました。
ただし、現在は江田島市になっていますが、厳密にいえば能美島の方でした(江田島とは地続きですが)。
それで、その祖母の家系の最終的に取得できた戸籍の本籍地末尾が「番屋敷」となっておりました。
目にした方は少ないと思いますが、本籍地が「番屋敷」「番戸」と表示されている場合は、現在の番地と全く違う意味で、土地ではなく家に付けられています。
明治~昭和にかけて、通常は、本籍地=住所地である可能性が高いのですが、「番屋敷」の場合、番地とリンクせず、結果として先祖の住所地は不明ということがわかりました。
もし住所地まで知りたいという場合、「旧土地台帳」という明治22年から昭和30年頃に使用されていた、土地の所有者や地目・地積などの情報を記載した台帳を調査することになります。
旧土地台帳は、法務局に保存されていますから、広島出張の合間に時間を作って、管轄法務局である広島法務局呉支局を何度か訪れて調査しました。
法務局での調査にかかった時間は、のべ10時間ほどでしょうか。
先ほど書いたように戸籍末尾が番屋敷ということで、住んでいたであろう村名までしか確実ではありませんから、その村の旧土地台帳を全部出してもらい、しらみつぶしに一つ一つあたっていきました。
非常に地味で根気のいる作業です。
ただ、調べていくと、ご先祖の名前がいくつも出てきて、不動産をたくさん所有しており、頻繁に売買していることが記載されていましたから、武士だったかどうかは不明ですが、少なくともそれなりの資産家だったんだろうということは分かりました。父の言っていたこととも符合します。
また、旧土地台帳上の地番と現在の地番を照らし合わせて見ていくと、この辺に住んでいたんだろうなとあたりが付けられましたし、現在の地図と見比べることで先祖と同姓のお宅がありましたから、もしかすると本家かもしれない、機会があったら話を聞きに行こう、と思いました。
こうして旧土地台帳を調査することで、先祖が住んでいた場所や、住居以外に田畑や山林などの資産を所有していたこと、同姓の家の存在、菩提寺と思われるお寺の存在などが分かったのです。
最初に遠いところから、ということで父方の祖母の家系を調査しはじめた関係上、次に私が行ったのは、先祖が暮らしていた土地の風土や産業、暮らしぶりを調査することと、先祖は武士だったという話が本当か確かめることでした。
具体的には、広島の図書館や公文書館で郷土史(沖美町史、佐伯郡史、広島県史)を読んだり、江戸時代の能美島(現江田島市)はどこの藩が統治していたのか調べたり、広島藩の分限帳にあたったりしました。
結果として、武士であったことの確認はとれませんでしたが、先祖が住んでいたあたりのいろんな情報は集めることができました。
父方の祖父の家系については、昭和20年代まで数代にわたって事業をしていたということですから、佐賀県にはそれなりに資料が残っている可能性が高いと言えます。まだ調査には出かけられていませんが、まずは図書館に1日こもって作業することになるでしょう。
母方の家系は、熊本県荒尾市・玉名郡長洲町あたりです。こちらも祖父の元気なうちに調査しなければなりません。
先祖が居住していたところに足を運ぶ、というのも大事なことです。
だいたいの現地は訪れたのですが、江田島には行けていません。
菩提寺の名称と場所がある程度特定できていますので、訪れる前に過去帳を見せてもらえるよう依頼し、また近くにお住いの同姓の方に話を聞かせて頂こうと思っています。
現地調査ができた時点で、また筆を進めようと思います。
2016年8月25日 井手誠記す